ウェルフェアコミュニティーデザイン(株)備忘録



私、本間いずみは、

夫(本間 誠)の父親であり、

創業者である本間武男が、

生前に行なった数々の平和活動に

インスパイアされて、

詩とピアノ曲、パブリックアートを制作しました。



そこで、今後は「伊豆美」として

個人活動を行ないますので、

これをもちまして、

ウェルフェアコミュニティーデザイン(株)の

営業を一旦休止する予定でおりましたが、



残った負債が膨大な金額ですので、

この原因を弊社として調査し、

説明が出来るようにした上で、

「新たな活動を始めたい」と考えました。



そこで、もう一度備忘録として、

本間武男が取り組んだ平和活動と、

私の考察を掲載いたします。



2024年3月14日 本間 いずみ (伊豆美)







【はじめに】

 北海道出身の画家で弊社の創業者である本間武男は、余市町で生まれ終戦後に小樽市内のデパートや広告会社で働いていましたが、自分の才能に疑問を感じて北海道を彷徨い歩き、アルコール依存症を克服して第二(あるいは第三)の故郷となる苫小牧市へ移住しました。

 恵まれた体格でアルコールにも強かった本間は、常々「自分は樺太生まれかもしれない」と語っており、苫小牧で版画サロンを開業してからは反戦壁画を制作するなどして、画家としての幅を広げました。

(エッセイをこちらからご覧頂けます。)


本間武男(1929-2006)プロフィール


1929年北海道余市町に生まれ。苫小牧市を拠点に活躍。
広告会社イラストレーターの傍ら、日宣美、日本デザイン協会に所属。
同会を退会後に北海道放浪。東京、銀座、日本橋、横浜など各地で個展を開催。
雪の北海道をテーマに全国で版画展を開催。





昭和54年(1979年)【故郷余市町に油絵を寄贈】
昭和56年(1981年)【紺綬褒章を受賞】


 生まれ故郷の余市町に、「余市川暮色」と題する二百号の大きな油絵を寄贈し、紺綬褒章を受賞しました。友人の一人から、「開町80年を記念して建設されている3階建ての公民館のロビーに君の絵を展示したい」という電話があり、これを受けてのことでした。

 この時本間は、「余市川でフナを釣ったりして楽しんだ思い出が、絵を描いていると次々とよみがえってきた」と周囲へ語っており、油絵の評価額が紺綬褒章対象の評価額を超えていたため、町民や余市町役場が推薦して下さり同賞を受賞しました。



昭和58年(1983年)
【北の画集Ⅰを出版】


 紺綬褒章の受賞をきっかけに反戦壁画「十界彷徨」を構想し、制作資金を得るために絵の販売にも力を入れるようになりました。この年に、「北の画集Ⅰ」を出版、1985年、1987年にも出版しています。(Ⅳは別会社によるもの。)この「北の画集」の筆文字は書家 町春草さんに書いていただいたものです。

 「北の画集」はパステル画や版画を中心に作品を掲載し、有名・無名を問わずたくさんの方々から頂いた応援も一緒に掲載させていただきました。中でも俳優、歌手、コメディアンとして有名な森繁久彌さんから大変ご厚意をいただいております。

  

 

<制作> 版画サロン 雪 (弊社が株式会社になる前の工房)

右は森繁久彌さんから頂いた詩 「道は遠く ただコスモスの風にゆれ いづこに行くか 北のまた北」



昭和58年(1983年)
【反戦壁画「十界彷徨」の制作に着手。タイトルは書道の大家、町春草さん】


 「十界彷徨(じゅっかいほうこう)」は縦2メートル・横40メートルにわたる大壁画で、紺綬褒章を受賞し「画家として平和のために出来ることは何か?」と自分を振り返り、意を決して取り組んだアートワークです。

 前年の1982年には、第二回国際軍縮会議 特別総会がニューヨークで開催され、広島市長が世界の都市へ呼びかけて「世界平和連帯都市市長会議(現・平和首長会議)」が設立されました。(1)

 また、ニューヨークの国連本部には、愛媛県出身の男性が中心となって贈呈した「日本の平和の鐘」もありますので、本間はこうしたニュースや平和活動に影響を受けて「十界彷徨」を制作したものと思います。

参考サイト(外部サイト) 2021年6月24日閲覧
(1)平和首長会議 (mayorsforpeace.org)

制作に向けて駐日大使館(領事館)へTシャツを送りメッセージを頂戴しました。いただいたメッセージはこちらでご覧頂けます。



     





昭和60年(1985年)
【皇太子さまご夫妻(今上天皇)へニシンのパステル画を贈る】


 昭和60年(1985年)に今上天皇ご夫妻が来道し、サロマ湖で行われた「第五回・全国豊かな海作り大会」へご出席されました。この時にニシンの稚魚を放流し、お泊りになられたホテルの部屋に本間の版画が飾られたことから、これを記念して今上天皇へニシンのパステル画を進呈しました。







昭和62年(1987年)
【恵庭市に仏像彫刻記念館建設準備】


   

 寄付のお礼や収集した仏像を展示して「仏像の歴史を学ぶ記念館」の建設を考えていたところ、場所が二転三転しましたが最終的に恵庭市の市有地(埋立地)を借りて準備をすることになりました。この頃は西洋画の美術館やアイヌ民族美術館も構想していましたので、一部の新聞記事ではこの一角を「本間アートセンター」と紹介しています。しかし最終的に建設場所に決まった土地が埋立地だったため、建物を建てたり庭を造成する費用が予想以上にかかってしまい、事前に新聞発表していた外観とは異なる簡易建物になってしまいました。

 この敷地には100年の風雪に耐えた北海道の代表的な建築物の模型を作ったり、森繁久彌さんから頂いた詩文を句碑にしたり、仏師松久宗琳が原型を制作した10mの大きな涅槃像を設置したりもしました。この涅槃像の台座には人間国宝十三代片岡仁左衛門さんから「現顕相實 げんけんそうかん」という筆文字を頂戴したのですが、「實相顕現」は「あるがままの姿」という意味だそうです。




 また、平和活動で有名なオノ・ヨーコさんに快諾をしていただき、世界的に有名なミュージシャンであるジョン・レノンさんの平和記念碑も設置しました。翌年の1988年には、「JUNO'S JAPAN 世界食の祭典’88」に合わせて来道したオノ・ヨーコさん及び恵庭市長とともに、モクレンの木を植樹しています。


(ジョン・レノン平和記念碑についての考察)

 ジョン・レノン平和記念碑には、本間が知人を介して香川県大川郡の女性から譲り受けた「原爆の火」の小さなガス塔も設置されました。その理由については日本政府がこの年に「国際軍縮会議を日本で行う用意がある」と表明したためだと思います(2)。また、本間は生前に書いた宛名の無い手紙の中で、「恵庭市は自衛隊の町であるので自衛隊員にも音楽で平和を感じてほしい。」と語っています。

 ジョン・レノン平和記念碑の中央には町春草さんが書いた「こころ」という題字があり、その下にイマジンの歌詞の一部である「欲張ることや飢える必要なんてない。みんな仲間なんだから、   」というメッセージが書かれています。このメッセージはこれを見た人が「仲間なんだから、」の後に、自分なりの言葉を当てはめる参加型の作品になっていました。

参考ページ(外部サイト) 2021年6月24日閲覧
(2)外務省:国連における軍縮・不拡散への取り組み (mofa.go.jp) 5.国連軍縮会議



 

左:ジョン・レノン平和記念碑(2008年撮影)





昭和62年(1987年)
【ふれあい広場市民の集いでチャリティー童画展開催】


 この年、恵庭市市民会館で行なわれた「ふれあい市民の集い」で童画の販売を行ない、社会福祉協議会を通じて売上を恵庭市の福祉事業へ寄付しました。(白老町出身の女性漫画家は来場者の似顔絵を書いたそうです。)

 この集いは「子供たちや老人、障碍者、生きにくさを抱えた市民らが困難のない明るい地域社会を創ろう」というノーマライゼーションの普及が目的で、障害を持つ児童らが楽器を演奏したり車いすや手話などの体験コーナーがあったり、チャリティーバザー等が行なわれ大変な賑わいだったそうです。

  



昭和62年(1988年)
【北の画集Ⅳを出版】

 新日鉄室蘭のグループ会社「株式会社スガテック」が北海道庁旧本庁舎の落成一〇〇年記念し「北の画集Ⅳ」の発売を計画し、「株式会社インターコープ文化事業部」を設立して1,000部を出版してくださいました。

 表紙には函館のハリストス正教会の版画「雪の函館」、見開きには北海道庁旧本庁舎の版画「陽光」および当時の北海道知事からのメッセージが使われました。


 
<制作>株式会社インターコープ文化事業部





平成2年(1990年)
【第41回さっぽろ雪まつりポスターデザイン】


 さっぽろ雪まつりのポスターに、これまで二度本間のデザインが採用されています。一度目は平成2年(1990年)のデザインで、赤い手袋の雪だるまと鳩を描き温かみのあるほのぼのとした印象に仕上げました。

 二度目は平成7年(1995年)の赤いショールを身にまとった雪だるまで、目にうっすらと色を入れ北海道の国際化と平和を願うデザインにしました。このポスターには雪だるまとともに「純白の夢よぶ世界のひろば」というメッセージも書かれています。







平成3年(1991年)-平成4年(1992年)
【千歳空港着陸一号機「北海一号」を復元】



 1988年に開港した新千歳空港は国内屈指の利用者数を誇っていますが、その新千歳空港に隣接する千歳飛行場の第一歩は千歳村の村民達が完成させた200mの滑走路でした。この滑走路は、小樽新聞社社機「北海一号」が上空を周回と聞いた村民たちが、「せっかくだから千歳に着陸をしてもらおう」と緊急会議を開き、村民と在郷軍人など約400人が参加して2日がかりで造り上げたものです。

 この逸話に本間は、「当時の村民が一致団結して滑走路を造った大正版"村おこし"に感銘を覚えるし、感無量のものがある。当時の村民の気持ちと行動力が、今の千歳の礎になっているのではないか?」と語り、「当時の気持ちを後世に伝えるためにも北海一号機の復元を思い立った」としています。復元の方法としては、本間が資料を集めてミニチュアを製作、それをもとに遠軽町の義弟の木工会社が原寸大にしました。「北海一号機」の製造元であった三菱の幹部は、完成した飛行機をみてあまりの精密さに驚いたそうです。

 それから「北海一号機」は北海道空港情報サービス社を通じ、1992年にオープンした新千歳空港ターミナルビル内に展示されましたが、大空に憧れた先人達の夢と飛行機の歴史を伝えるため、その後も本間は同社とともに世界の歴史的飛行機の模型を作り続け
、恵庭市の本間コレクションにも原型となったミニチュアを展示しました。





平成5年(1993年)
【洪水に見舞われたバングラディシュに「ホンマ・タケオ医療チーム」が発足】


 平成5年(1993年)にバングラディシュ出身の北大医学部の生徒に贈った善意がもとで、伝染病の治療を行なう「ホンマ・タケオ医療チーム」がバングラディシュに発足しました。翌年の1994年にはシルクスクリーン版画で作ったカレンダーの売上げを全額寄付したり、寄付を集めて救急車を贈るなどの活動を続けました。バングラディシュからも北海道南西沖地震の際にお見舞いが届くなど、両者の間で温かい交流が続きました。

 





平成5年(1993年)
【在日スペイン人へのボランティアがきっかけでスペイン王立美術院から感謝状が届く】 


 スペイン国立ロイヤルアカデミー・サン・カルロス王立美術院から、「会員がお世話になりました」と感謝状が届きました。本間がお世話をした同美術院の会員は、渡島管内八雲町にアトリエをもつスペイン人の画家の男性で、北海道で絵画活動を続けてきましたが思うように絵が売れず、スペインにも工場のある室蘭市内の新日鉄製作所に相談したところ、社内誌の表紙を描いていた本間を紹介されたそうです。

 本間は絵の販売手続きや生活の面倒をみたほか、懇親的に絵の指導などもしたところ、一時帰国したスペインの画家が本間の善意を美術院に報告し、感銘を受けた院側から感謝状が贈られてきました。突然の感謝状に驚きを見せたものの、「自分ではあまり大したこともしていないが、王立美術院からのお礼は大変嬉しく光栄なこと」と話していました。

 





平成6年(1994年)
【仏像彫刻記念館を本間コレクションにリニュアル】


 1990年に恵庭市が仏像彫刻記念館周辺を教育文化ゾーンとして開発する計画を作ったため、本間もその計画に基づいて物創彫刻記念館のリニュアルを決めました。(しかし、本間は民間扱いのため補助金は一切支給されない内容でした。)

そこで本間は、建物の名称や展示品は自由にリニュアルすることとし、仏像の起源および異文化融合の象徴と考えられるギリシャ風仏教美術(ガンダーラ美術)を中心に、46億年前の地層から発見された化石やアリゾナに落下した隕石、絶滅してしまった恐竜の骨格標本、魂の生まれ変わりと信じられている蝶の標本、ヒマラヤ少数民族の仮面や彫刻、インドの祭りに使われた飾り等をコレクションに追加して、生命の息吹を感じる博物館にしました。



  

 反戦壁画「十界彷徨」に続いて制作した白亜紀の壁画。子供達にも地球の歴史を知ったり、楽しんで貰えるような博物館を目指したのだと思います。






-戦後50年-


平成7年(1995年)
【繁栄と平和の願いを込めて仏画を制作。故郷余市のお寺へ寄贈】


 平成7年(1995年)に、故郷余市の大乗寺へ余市や祖国の繁栄と平和を願う油絵(各2m四方)3点を寄贈しました。この油絵は、幼なじみの住職から「11月に完成する葬祭場の祭壇に飾る仏画を描いてほしい」と頼まれ、自宅アトリエで8ヶ月をかけて描いたものです。

 本間は当時、「体力的に疲れたが寺を訪れる人たちに喜んでもらえることを思えば辛くはなかった」と語り、住職も「信徒一同、喜んでくれるでしょう。寺の宝物として大切に保存します」と話していました。絵は、渦を巻く昇り龍を背景に優美な表情を浮かべる瑞竜観音(右)、右手に剣、左手に鈴付きの縄を持ち、荒波の上に立つ「波切不動」(左)、夜明けにハスの花を持ちながら座禅を組む「明星観音」(中央)の3点で、それぞれ日本や余市の繁栄、漁業の安全と魚介類保護、農業の発展への願いが込められています。







平成8年(1996年)
【苫小牧市で海に挑んだ人類の歴史を辿る帆船づくり】


 この年、第二の故郷である港町・苫小牧市で、「人類と海の歩みを紹介したい。」と思い立ち、歴史的な帆船のミニチュア模型を制作して展示しました。

 この取り組みは、世界各地で建造・利用された船46隻の模型をメーカーから購入し、スタッフの手で制作したもので、6,000年以上も前から海上交通手段として人類に繁栄をもたらした帆船の歴史をたどり、「先人達の夢とロマンを身近に感じてもらえれば。」と構想したものです。

「帆船」は、「反戦」の同音異義語ですので、文明の「平和利用」を訴えたかったのかな?と思います。

 また、この構想に際して俳優の森繁久弥さんから「海どのと船君」と題された激励の詩も届いており、完成した帆船と一緒に紹介されました。






平成8年(1996年)
【東郷青児の壁画修復へ】

 この年、日本を代表する洋画家東郷青児が東京都内のピアノ販売会社の壁に描いた壁画をスタッフ二人と修復することになり、「完成後にはどこか公の場所に飾ることができれば。」と意欲をみせていました。

 この作品には当初タイトルがありませんでしたが、雲と五人の女性が描かれた甘美な画風で東郷青児の代表作「天使の休日」によく似た作品でした。この3、3m×7、3mもの巨大な壁画は東京に住む持ち主の倉庫に20年以上も眠ったままで、絵具が剥がれていたり空気が入って歪んでいたりと痛みが大変激しく、修復作業はおよそ10ヶ月ほどかかりました。

 なお、修復した壁画は翌年に苫小牧市博物館と恵庭市の本間コレクションにて公開され、修復を手伝った前社長の夫の話によると東郷青児の親族から証明書をもらって持ち主の元へ返却されたそうです。





-画業50年-


 平成9年(1997年)
【高さ2m、長さ140mの油絵「北海道の四季」の製作に着手】

 この年、画家生活50年を記念して、大壁画「北海道の四季」の製作を始めました。「北海道の四季」は、2年にわたり描き続ける予定だった油絵で、完成後の大きさは高さ2m・長さ100mにもなる見込みでした。

 本間は、市民や企業などの皆様より絵の具代・キャンパス代の支援を頂いた代わりに、冬には冬の風景を、春には春の風景を描きながら、道内各地の風景を連続的に変化させて描いていく様子を公開していました。しかしその一方で、予想外の出費に悩まされ心労が重なり、脳梗塞で倒れ画家としての生命が絶たれてしまいました。

 こうして画業50年を記念する「北海道の四季」は日の目を見ることなく終わってしまいましたが、数々の平和活動や困難に向き合った姿は消えることなく受け継がれていますので、新しい形へと生まれ代わっていくのかな、と思います。







平成12年(2000年)
【仏像や彫刻品が展示品の中心だった本間コレクションを美術館へ衣替え】


脳梗塞による創業者の引退に伴い、8,000点以上もの展示品の大半を整理し、本間武男の作品を中心とする美術館へと衣替えしました。







平成15年(2003年)
【本間コレクション完全閉館】


平成17年(2005年)
【建物を恵庭市に寄付】


 創業者の引退や来客数の伸び悩み、恵庭市による周辺開発の中止等が重なったため、本間コレクションは単独で維持することができなくなり2003年秋に完全閉館しました。
 なお、本間コレクションは更地にして返却することが難しく、ジョン・レノン記念碑以外を恵庭市へ寄付した形になっております。(ジョン・レノン氏の胸像は2009年にオノ・ヨーコさん側へお返しし、本間コレクションにあった展示物や涅槃像は債務整理のためそれ以前に第三者へ譲渡しました)




(2008年撮影。この後建物は2024年現在はありません)


<追記> 令和6年3月17日

画業50年の油絵「北海道の四季」を制作するのに合わせ、国連の「平和の鐘」にインスピレーションを得て鐘の制作も考えたようです。現在の私は、この構想を引き継ぎ、「日本に足りない灯を作るべきではないか?」と考えるようになりました。いつか、私たちにとって本当に必要なアートであり芸術と呼ぶべき「愛と友情の灯」が完成することを願ってやみません。




(編集:本間いずみ)





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