このページでは展示会の来場者へ配布していた回想録の中から5編のエッセイをご紹介致します。(読みやすいように一部編集しています。)








 エッセイ① 熱心に絵の道勧める


 私は昭和四年(一九二九年)に、日本海に面した後志の余市町で生まれ、育った。余市は北海道でも古くから発展してきた町です。開基百有余年を数え、先人が漁業、農業、文化の各面でこの地に優れた遺産と精神を残して来た。
 子供のころの思い出をたどってみると、四季は実にはっきりしている。春五月、リンゴとナシの花の白と薄いピンクで町はすっぽりと包まれる。自転車で走っても、どこまでもどこまでも霞(かすみ)のように果てしなく続いていた。 
 一センチくらいの実がつくと、町中の人がリンゴを虫から守るために袋かけ作業に駆り出される。年中行事の一つ。リンゴのまち・余市は人々もまたリンゴをとても大切にしていた。 
  やがて地面にイチゴが赤く色づき、サクランボが雨を気にしながら熟れていく。川で泳ぎ、ウグイを釣る。海に潜ってアワビやウニを採って食べる。 今日、飽食の時代と言うが、味はあのときの自然の恵みに勝るものはない。
 こんなおおらかな少年時代を過ごした私だったが、、余市町立大川尋常高等小学校に入学して担任の杉本善作先生(故人)と出会うことになった。先生は私に熱心に絵を描くように勧めてくれた。当時絵を描くことがあまり好きでなかった私は、いつも逃げ歩いていた。  

(中略)

 職員室に入る廊下の壁に先生のリンゴとニシンの油絵が飾ってあった。厚塗りの絵の具がどっしりとして不思議な実在感が迫って来る。絵は確かに先生の何かを訴えていた。美しく描くというのでもなく、何か青春のエネルギーのようなものが額縁の檻(おり)の中に閉じこめられているようで、前を通るときはいつも静粛にしていた。  
 その先生と三十数年後に余市町でお会いした。先生は涙を流して私が絵描きになったことを喜んでくれた。  「君は絵を描くために生まれてきたんだ」と言われた。先生の顔が青年のように若く見えた。









 エッセイ② 北海道の夏は雄大でカラフル


  原生花園の花咲き乱れる六月下旬の網走は実にきれいだ。東京で北海道のいいところは、とよく聞かれる。私はまず網走の原生花園、風景の雄大な大沼、夕映えの美しい知床の海、積丹半島を挙げてきたが、夏の北海道はどこでもみな雄大でカラフルだ。小樽の、あの群青色を流したような海。これも北海道の色なのかと、認識を新たにしたことがある。

 しかし冬は峻烈(しゅんれつ)である。網走・紋別で流氷をよく描いたが、とにかく寒い。強い酒をのんでも、足はふらふらするが、頭だけはすっきりしている。咆哮(ほうこう)して襲いかかる吹雪は、山野も街も凍てつかせ震え上がらせる。あまりの寒さに一枚だけ描いて、あとはスケッチを頼りに宿で仕上げた。この時の一枚は芯までしばれる寒さを感じるが、あとの一枚は仕上がりは綺麗でも、私の目には温かくて流氷とはいえないものだった。絵は、油断がならない。正直である。

 知床の夕映えも実に豪快だ。大きな太陽が真っ赤に燃えて海の中にジューと音をたてて落ちて行く。感動的だが、あとは寂しい。無常の人生を感じる。これに対して積丹の夕焼けはわりにカラッとしている。天が高いのである。ウロコ雲がいっぱいに広がり、明日に希望が湧いてくる。

 七月初旬、サロベツ原野のエゾカンゾウが原野一面に咲き乱れ、黄色一色に染まる。空はスカイブルー。白雲が抽象画のように美しい線を描いている。この原野のコントラストは何か都会的だ。そういえば、ここに雨は降るのだろうか。私はここで一度も曇りや雨にあったことがなかった。






エッセイ③ 野球青年


 私は鰊(ニシン)の絵をよく書く。遠い想い出になるが、庭先で煙を上げてジュー、ジューと焼ける春鰊の薫りが今でも浮かぶ。余市の町じゅう鰊一色、海は白濁し、人々は走りまわる。

 かつては潮焼けした船頭やヤン衆の活気でにぎわった浜の番屋も今は訪れる人もなく、浜風と鰊雲の空の下で無情にも廃屋となっている。北海道を支えた鰊漁。消えた今、往時の豪快さ、素朴さが北海道から失われていくのは寂しい。なぜか幻の魚となった。帰らぬ魚影を待ち続け、何年も春の海に建つ私もまた一人の漁夫なのかもしれない。

  話は前後するが、若いころは野球選手としてちょっとは鳴らしたものだった。昭和二十五年(一九五〇年)に苫小牧で国体軟式野球の道予選があった。後志代表でニッカウヰスキーが出場した。当時、ニッカのデザインを描いていた私が補強選手として、投手で出場した。運動神経は抜群で力もあった。「大相撲に入っても必ず大関になれる」と口説かれたこともある。ニッカの創始者の故竹鶴正孝社長もその一人で、「絵をやめてプロのスポーツ選手にならないか」と勧められた。何の競技かは分からなかったが、おそらく格闘技ではなかったかと思う。闘志を体中にみなぎらせ、ギラギラしていたのであろう。

 ニッカのチームは(苫小牧)駅前の表町にあった富士旅館に泊った。雨で一日試合が流れ、仲間と街に出た。何と寂しい、静かな街であろうかと思った。翌日は日本晴れ。準々決勝で王子製紙と対戦した。これが私と苫小牧との最初の出合いである。

(中略)

 その後、しばらくくして、私は長いこと道内をさすらうことになるのだが、しばしあの時の静かな街、苫小牧市を思い出していた。






エッセイ④ 無心で描く絵はいい



私は、北海道郵便局の年賀はがきのデザインを二回描かせていただいた。最初は昭和六十年度(一九八五年度)だった。道郵政局長だった男性が私の絵のファンだったことから、この年の年賀状に採用されたのがきっかけだった。

 その後、北海道観光絵葉書を頼まれ、六十二年度(八七年度)には再び年賀はがきのデザインを引き受けた。

 この時は熊(クマ)が牡丹雪の中を、鮭(サケ)を背負って、雪に足跡を残して歩いている姿を描いた。北海道らしいと私は思っていた。

 ところが、世の中にはいろいろな人がいるものだ。正月早々、この年賀状のことで電話の問い合わせが舞い込んだ。「北海道では本当にクマが魚のエラからささ竹を通して背負って歩くのか」と聞いてくる。「ポエムだ」などと簡単に答えられない真剣さである。

 私は「自分の知り合いのカメラマンが知床でクマの写真を撮っている」ことなどを話し、「クマは頭がいい動物であるから、あるいは(もしかすると)―、そんな思いで描いたのです」とていねいににお答えした。私は、この方のまじめさに何か、とてもさわやかなものと、自分の仕事に対する今までとはまた別の責任感を感じさせられた覚えがある。

 六十四年(八九年)一月に昭和天皇がご逝去された。私はいつも天皇に敬愛の念を抱いてきた。私なりに追悼の気持ちを表して、水墨画を描いた。五十九年に登別の道央自動車道路の工事現場で、直径四十数メートルの直立した炭化木が十八本発掘されていたが、これを少しわけていただき墨を作り、これで二メートルの和紙に天界に登る龍の背に観音様を描いたのだ。この年、母の五十回忌の法要があり、余市の大乗寺に「彩雲の彼方へ」と題して納めさせていただいた。

(後略)

年賀状に採用された熊の絵(一番左端)と試作品。右端の白熊と兎は思いつきで描いたものと思います。







 エッセイ⑤ 野   生


 豊かに広がる北海道の風景、その豊かさの影にひそむ一抹の寂しさが人々の心を北へ惹きつける。原始の姿を思わせる日高の山々、ラベンダー薫る草原、流氷の海辺、時計台の文字盤、ロシア教会の尖塔、そこに陽の沈む時、はるかに北辰が輝きはじめる頃、旅人は悲しいまでの美しさに息をひそめる。

 このロケーションにピッタリの男がいる。夢は朝里の海辺に小屋を立て、潮騒と悠久の太古を語るつもりらしい。人々に心のオアシスをもたらすような仕事がしたいと言っていた。

 深遠なる思想家でもある。ほろ苦いやせ我慢に男の美学をみるのである。かぎりなく優しく、美しいご婦人もお似合いだ、なかなか出会えない男の一人である。

  郵便局から切手の原画の依頼がきた。テーマは蝦夷鹿、季節的に近くに鹿がいなく洞爺湖の鹿牧場へ行ってみた。エサがいいのか少し太っている。野性味に欠けるが威風堂々としたエゾシカを書くことができた。後に人気が全国一位と聞いて安心した。

 子供の頃は余市の川の上流でよくアユをとって食べた。アユはスマートな魚だと思っていたが養殖のアユは太って何とも味気がない。香りも苦味もなかった。野生はいい。北の大地の空の高きただ中に燃えるような情熱と絵を描いていた彷徨の日々がなつかしい。社会そのものが、今までのような単なる量的な豊かさを思考することから、人間的な美しさを志す社会へ、即ち、豊かな社会から美しき社会へと転じつつあるのではなかろうか。

(後略)






エッセイ⑥ 良き出会いが支えに


  今日、なんとか画家のはしくれとして人さまから評価をいただく身となったが、思えば決して平坦な歩みではなかった。五十年を越す画業を支えて来たのは、月並みながら数々の良き人との出会いだったと思う。
 私が絵を目指そうとしていた終戦直後、街に流れた「リンゴの歌」は自由と希望に満ちていた。昔のリンゴは酸味のほどよい素朴な味がした。糖度の高い今のリンゴは開拓当時の魂の風化を語っているようだ。
 厳しい風雪に耐えたハマナスは石狩の浜辺に、スズランは道内至るところの山野に、ライラックは札幌の街並みの中に、ラベンダーの群生は富良野の丘陵にそれぞれ気品と色と香りを振りまいている。
 惜しみなく四季折々に咲く美しい北海道の花。しかし、最も美しい花はだれをも優しく迎え入れてくれる北海道に住む人の心に咲く花である。

(中略)






「道は遠く ただコスモスの風にゆれ いづこに行くか 北のまた北」  久彌


 私の絵のファンで長年懇意にしていただいている森繁久弥さんが、私に贈ってくれた詩である。何の自信も御座居(ござい)ませんが、と添え書きがしてあった。なんとなく、絵かきとしてこれまでの自分のことをうまく言い当てて、また温かく見てくれているようで、画集の表紙裏に使わせてもらっている。




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