本間武男は北海道余市町生まれの画家で、紺綬褒章受賞をきっかけに世界平和や地域の繁栄を願って活動したアーティストです。

分野:イラスト、油彩画、水彩画、パステル、仏画、シルクスクリーン版画、彫刻(ブロンズデザイン)、模型
出身地:北海道余市町
活動拠点:余市町、小樽市、苫小牧市、恵庭市、千歳市 
弟子:久保田幸生(遠軽町)、伊藤晴二(苫小牧市)


(緑色は組織としての概要です。)
(エッセイ、パステル画等はこちら、切符等のデザインはこちらからご覧頂けます。)





1969年(昭和44年)
苫小牧市に絵画のアトリエを兼ねた「版画サロン雪」開業






昭和54年(1979年)【故郷余市町に油絵を寄贈】
昭和56年(1981年)【紺綬褒章を受賞】


 小樽市で広告の仕事をしたり、北海道各地の絵を描いていた本間は、自分の才能に疑問を感じて一時期アルコール依存症になりましたが、断酒をして苫小牧市に移住してからは、北方領土問題の解決を願ってオホーツクの絵をマラソン形式で各地に展示したり、「余市川暮色」と題する二百号の大きな油絵を生まれ故郷の余市町に送るなど、活発に画家としての活動を始めました。
 余市町に大きな絵を送ったのは、友人の一人から「開町80年を記念して建設されている3階建ての公民館のロビーに君の絵を展示したい」という電話があり、これを受けてのことでした。
 
 この時本間は、「余市川でフナを釣ったりして楽しんだ思い出が、絵を描いていると次々とよみがえってきた」と周囲へ語っており、油絵の評価額が紺綬褒章対象の評価額を超えていたことから、町民や余市町役場が推薦して下さり同賞を受賞しました。





昭和58年(1983年)
【反戦壁画「十界彷徨」の制作に着手。タイトルは書道の大家、町春草さん】


 「十界彷徨(じゅっかいほうこう)」は、1984年に完成した縦2メートル・横40メートルにわたる大壁画で、「画家として平和のために出来ることは何か?」と自分を振り返り、意を決して取り組んだアートワークです。

 前年の1982年には、第二回国際軍縮会議 特別総会がニューヨークで開催され、広島市長が世界の都市へ呼びかけて「世界平和連帯都市市長会議(現・平和首長会議)」が設立されました。(1)

 また、ニューヨークの国連本部には、愛媛県出身の男性が中心となって贈呈した「日本の平和の鐘」もありますので、本間はこうしたニュースや平和活動に影響を受け「十界彷徨」を制作したものと思います。

参考サイト(外部サイト) 2021年6月24日閲覧
(1)平和首長会議 (mayorsforpeace.org)
     





昭和58年(1983年)
【北の画集Ⅰを出版】


 1983年に「北の画集Ⅰ」を製作した後、「北の画集Ⅱ」、「北の画集Ⅲ」も製作しました。この「北の画集」の筆文字も書家 町春草さんによるものです。

 「北の画集」はパステル画や版画を中心に本間の作品を掲載し、有名・無名を問わずたくさんの方々から頂いた応援も一緒にご紹介させていただきました。中でも俳優、歌手、コメディアンとして有名な森繁久彌さんから大変ご厚意をいただいております。

  また駐日外国大使館の皆様へもTシャツを送りメッセージをお願いしましたので、頂いた葉書の中からウガンダ共和国大使館からのメッセージをご紹介します。

 「人類の平和への探求は、すなわち戦争、飢餓、貧困、基本的人権の拘束、文盲をなくすことを含みます。一部の国々が困難な状況であるならば、この相互依存の世界情勢の中では、他の国々がその影響を受けないわけにはいきません。世界中が平和であるべきなのです。全人類の平和のために、今、さらに深い理解、忍耐、そして感謝の気持ちが必要とされているのです。」

 大変素晴らしいメッセージで激励を寄せて下さいました皆様へ弊社より改めて感謝申し上げます。

 

<制作> 版画サロン 雪 (弊社が株式会社になる前の工房)  右は森繁久彌さんから頂いた詩です。





昭和60年(1985年)
【皇太子さまご夫妻(今上天皇)へニシンのパステル画を贈る】


 昭和60年(1985年)に今上天皇ご夫妻が来道し、サロマ湖で行われた「第五回・全国豊かな海作り大会」へご出席されました。この時にニシンの稚魚を放流し、お泊りになられたホテルの部屋に本間の版画が飾られたことから、これを記念して今上天皇へニシンのパステル画を進呈しました。







昭和62年(1987年)
【郵政省お年玉付き年賀はがき「くまっこ」原画制作】








昭和62年(1987年)
【ふれあい広場市民の集いでチャリティー童画展開催】


 この年、恵庭市市民会館で行なわれた「ふれあい市民の集い」で童画の販売を行ない、社会福祉協議会を通じて売上を福祉へ寄付しました。この集いは「子供たちや老人、障碍者、生きにくさを抱えた市民らが困難のない明るい地域社会を創ろう」というノーマライゼーションの普及が目的で、障害を持つ児童らが楽器を演奏したり、車いすや手話などの体験コーナー、チャリティーバザー等が行なわれ大盛況だったとのことです。

(左)新聞社不明
(右)苫小牧民放:昭和62年12月14日







昭和62年(1987年)
【恵庭市に仏像彫刻記念館建設準備】


   

 ネパールへの寄付のお礼に贈られてきた仏像の展示や、仏教の歴史を学ぶ記念館の建設を考えていたところ、「水と緑の安らぎプラン」を実施していた恵庭市に誘致をされ、牧場地区に土地を購入しました。しかしその後場所が移動になり、白樺町の市有地を借りて準備をすることになりました。本間は当時、絵画やアイヌ民族美術館も構想していましたので、一部の新聞記事ではこの一角を「本間アートセンター」と紹介しています。

 敷地には建築100年を迎える北海道庁旧赤れんが庁舎のミニチュアを作ったり、小さなリンゴ園を作ったり、森繁久彌さんから頂いた詩を刻んだ詩碑、仏師松久宗琳氏作の10mの大きな涅槃像を設置したりもしました。この涅槃像の台座には人間国宝片岡仁左衛門さんから「實相顕現 じっそうけんげん」という言葉を頂戴したのですが、「實相顕現」は「あるがままの姿」という意味だそうです。

 また、平和活動で有名なオノ・ヨーコさんに快諾をしていただき、世界的に有名なミュージシャンであるジョン・レノンさんの平和記念碑も設置、翌年の1988年には「JUNO'S JAPAN 世界食の祭典’88」に合わせて来道したオノ・ヨーコさん及び恵庭市長とともに、モクレンの木を植樹しました。この時オノ・ヨーコさんは「とにかく森を作りなさい」「木を植えなさい」と熱心に勧めてくださったそうです。

右上の涅槃像の写真は一番左端が本間です。

新聞記事は2社ともに社名不明:1988年7月19日
※同じ式典の記事です。


  


 (ジョン・レノン平和記念碑についての考察)

 ジョン・レノン平和記念碑には、本間が知人を介して香川県大川郡の女性から譲り受けた「原爆の火」の小さなガス塔も設置されました。その理由については日本政府がこの年に「国際軍縮会議を日本で行う用意がある」と表明したためだと思います(2)。また、本間は生前に書いた宛名の無い手紙の中で、「恵庭市は自衛隊の町であるので自衛隊員にも音楽で平和を感じてほしい。」と語っています。

 ジョン・レノン平和記念碑の中央には町春草さんが書いた「こころ」という題字があり、その下にイマジンの歌詞の一部である「欲張ることや飢える必要なんてない。みんな仲間なんだから、   」というメッセージが書かれています。このメッセージはこれを見た人が「仲間なんだから、」の後に、自分なりの言葉を当てはめる参加型の作品になっていました。

参考ページ(外部サイト) 2021年6月24日閲覧
(2)外務省:国連における軍縮・不拡散への取り組み (mofa.go.jp) 5.国連軍縮会議



 
左:ジョン・レノン平和記念碑(2008年撮影)  右:オノさんが本間の親族や集まった市民に書いて下さったサイン





昭和63年(1988年)
【恵庭大橋のブロンズ像「夏の日」と「冬の朝」をデザイン】

 この年に完成した漁川の恵庭バイパスに、春夏秋冬をイメージした4体の「乙女の像」が設置されることになり、本間のデザインした「夏の日」と「風雪」が夏と冬の像になりました。(最初は4体とも担当する予定でしたが春と秋は小樽市の鈴木吾郎さんのデザインした像になりました。)

 この橋の文化事業は、北海道開発庁が提唱する冬トピア事業や恵庭市の緑化計画に基づいて行なわれたもので、モニュメントのある「橋台公園」にはインターロッキングやベンチ、水飲み場、デザイン照明なども施され、文化の薫るモダンな橋として市民の話題を呼びました。




【北の画集Ⅳを出版】

 新日鉄室蘭のグループ会社「株式会社スガテック」が北海道庁旧本庁舎の落成一〇〇年記念し「北の画集Ⅳ」の発売を計画し、「株式会社インターコープ文化事業部」を設立して「北の画集Ⅳ」を1,000部を制作してくださいました。

 表紙には函館のハリストス正教会の版画「雪の函館」、見開きには北海道庁旧本庁舎の版画「陽光」および当時の北海道知事からのメッセージが使われ、巻末にはジョン・レノン平和記念碑も掲載されています。


 
<制作>株式会社インターコープ文化事業部





平成元年(1989年
【昭和天皇への追悼と平成の飛躍への願いを込めて水墨画を制作】


 新年が明けてすぐの1月7日に昭和天皇が崩御なされたことを受けて、追悼と平成の飛躍を願い、登別で発見された約四万年前の炭化木を使い「昇り龍と観音像の掛け軸」を制作し、恵庭の仏像彫刻記念館(後の本間コレクション)に展示しました。この水墨画は縦1.4m、横75㎝の掛け軸に描かれたもので、昭和天皇の崩御を知りすぐに取り掛かることを決め、一日がかりで一気に仕上げたものです。なお、この掛け軸はその後故郷のお寺に納めました。

新聞社不明:1月12日 (日付は裏面の広告とテレビ欄より推測できました)







【テクノパークにあった樹齢約150年の桜の木を移植】


 この年、恵庭テクノパーク内にあった樹齢約150年、幹の周囲2.4m、高さ約10mの恵庭でも珍しい大木を仏像彫刻記念館(のちの本間コレクション)の敷地に移植することになり、すでに設置してあった釈迦涅槃像前に植樹しました。本間は同敷地内にリンゴの木約20本も植えており、この桜の木も翌年には花を咲かせ、数年後には根本付近に置いてあった岩の間からも枝を伸ばしてたくましい生命力と美しい花を見せてくれたそうです。

新聞社不明:1989年5月25日







平成2年(1990年)
【第41回さっぽろ雪まつりポスターデザイン】


 さっぽろ雪まつりのポスターに、これまで二度本間のデザインが採用されています。一度目は平成2年(1990年)のデザインで、赤い手袋の雪だるまと鳩を描き温かみのあるほのぼのとした印象に仕上げました。

 二度目は平成7年(1995年)の赤いショールを身にまとった雪だるまで、目にうっすらと色を入れ北海道の国際化と平和を願うデザインにしました。このポスターには雪だるまとともに「純白の夢よぶ世界のひろば」というメッセージも書かれています。







平成3年(1991年)
仏像彫刻記念館のリニュアルに向けて「版画サロン雪」を解散し「株式会社本間武男」を設立





平成3年(1991年)-平成4年(1992年)
【千歳空港着陸一号機「北海一号」を完全復元】



 1988年に開港した新千歳空港は、その後利用者が増え続け現在では国内屈指の利用者数を誇っていますが、その新千歳空港と隣接する千歳飛行場の第一歩となったのが、1926年に千歳村の村民達の手によって完成した200mの滑走路でした。この滑走路は、小樽新聞社社機「北海一号」が上空を周回する知らせを聞いた村民たちが、「せっかくだから千歳に着陸をしてもらおう」と緊急会議を開き、村民と在郷軍人など約400人が参加して、200mの滑走路を2日がかりで造り上げたものです。

 この逸話に本間は、「当時の村民が一致団結して滑走路を造った大正版"村おこし"に感銘を覚えるし、感無量のものがある。当時の村民の気持ちと行動力が、今の千歳の礎になっているのではないか?」と語り、「当時の気持ちを後世に伝えるためにも北海一号機の復元を思い立った」としています。復元の方法としては、本間が資料を集めてミニチュアを製作、それをもとに遠軽町の義弟の木工会社が原寸大にしました。「北海一号機」の製造元であった三菱の幹部は、完成した飛行機をみてあまりの精密さに驚いたそうです。

 それから「北海一号機」は北海道空港情報サービス社を通じ、1992年にオープンした新千歳空港ターミナルビル内に展示することになりましたが、大空に憧れた先人達の夢と飛行機の歴史を伝えるため、その後も本間は同社とともに世界の歴史的飛行機の模型を作り続け、ライト兄弟の「ライトフライヤー号」やリンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス号」、レオナルド・ダ・ヴィンチの試作機など合計14機を完成させ、1996年までに順次同ターミナルビル内に納めました。
なお、恵庭市の本間コレクションにも別棟を作り、原型となったミニチュアを展示しました。



<左>朝日新聞:1992年日付不明 <右>北海道新聞(夕刊):1996年5月25日

 





平成5年(1993年)
【洪水に見舞われたバングラディシュに「ホンマ・タケオ医療チーム」が発足】


 平成5年(1993年)にバングラディシュ出身の北大医学部の生徒に贈った善意がもとで、伝染病の治療を行なう「ホンマ・タケオ医療チーム」がバングラディシュに発足しました。翌年の1994年にはシルクスクリーン版画で作ったカレンダーの売上げを全額寄付したり、寄付を集めて救急車を贈るなどの活動を続けました。バングラディシュからも北海道南西沖地震の際にお見舞いが届くなど、両者の間で温かい交流が続きました。

 





平成5年(1993年)
【在日スペイン人へのボランティアがきっかけでスペイン王立美術院から感謝状が届く】 


 スペイン国立ロイヤルアカデミー・サン・カルロス王立美術院から、「会員がお世話になりました」と感謝状が届きました。本間がお世話をした同美術院の会員は、渡島管内八雲町にアトリエをもつスペイン人の画家の男性で、北海道で絵画活動を続けてきましたが思うように絵が売れず、スペインにも工場のある室蘭市内の新日鉄製作所に相談したところ、社内誌の表紙を描いていた本間を紹介されたそうです。

 本間は絵の販売手続きや生活の面倒をみたほか、懇親的に絵の指導などもしたところ、一時帰国したスペインの画家が本間の善意を美術院に報告し、感銘を受けた院側から感謝状が贈られてきました。突然の感謝状に驚きを見せたものの、「自分ではあまり大したこともしていないが、王立美術院からのお礼は大変嬉しく光栄なこと」と話していました。

(左) 贈られた感謝状 (右) 民放千歳:1993年

 





平成5年(1993年)
【釧路プリンスホテルの彫刻を制作】


 ご縁を頂いて釧路プリンスホテルの野外彫刻一点、室内彫刻三点を制作させていただきました。写真はホテルの入口に設置された野外彫刻「湿原の詩」の原型(石膏)です。

 翼を左右に高く広げ、今にも力強く飛び立とうとしている白鳥の姿が、右手に一輪の花を握りしめ左手でワンピースの裾を優しく持ち上げている女性をより優美にエレガントに見せている力作です。(写真は石膏の原型です)

 





平成6年(1994年)
【旧ソ連の貴重なフィルムをビデオ化へ】


この年、日ロ友好に役立てようと、旧ソ連政府が国外へ自国の文化を紹介するために制作したフィルム600本を入手し、ビデオ化して図書館や研究者らに貸し出そうと考えました。このフィルムは1970年代に制作されたもので、少数民族の生活や厳しい風土、野生動物など自然を描いたものが多く、「文豪トルストイとプーシキンの周辺」や「エルミタージュ美術館」「モスクワ・クレムリンの秘宝」など、旧ソ連の歴史や芸術なども幅広く取り上げていました。損傷が激しく全てはビデオ化できませんでしたが、本間は「国家の威信をかけて作った意気込みが感じられる。取材には相当の時間と資金がかかったはず」と話し、このビデオは恵庭市にある本間コレクションでも上映されました。

北海道新聞:1994年3月23日







平成6年(1994年)
【仏像彫刻記念館を本間コレクションにリニュアル】


 私は当時を知らないのですが、仏像彫刻記念館について本間が方向転換をしようとしていたのがよくわかります。戦争と平和や、仏教の静かな死生観は、まちの周辺開発にあまり馴染まなかったのではないでしょうか?そこで仏像の起源であり異文化融合の象徴であるギリシャ風仏教美術(ガンダーラ美術)を中心とし、46億年前の隕石や化石、絶滅してしまった恐竜の骨格標本(一部現物)、魂の生まれ変わりと信じられている蝶の標本、ヒマラヤ少数民族の仮面や彫刻、インドの祭りに使われた飾り等をコレクションに追加し、生命の息吹を感じる博物館にリニュアルしました。

新聞社不明:1994年4月2日
写真は主にリーフレットからのもの。(ピンク色のはリーフレットの表紙です。)





(一番下の右二枚は展示品の背景の壁に本間とスタッフ2名<うち1名は私の夫の誠>が絵を描いているところ。こうして子供でも楽しめるように工夫をしました。)





平成6年(1994年)
【ふるさと切手「エゾシカ」の原画制作】









 平成6年(1994年)

【ノアの箱舟美術館を構想し模型を制作】


 この年、「画家としての集大成になるものを」と夢を膨らませ、木造のノアの箱舟を作り、その内部をキャンバスに見立てて描く「ノアの箱舟美術館」を構想しました。
 ノアの箱舟は旧約聖書で洪水から人と動物を救ったとされています。そこで以前から箱舟というモチーフを使い、「自然破壊や地球の環境問題に警鐘を鳴らすことが出来ないか?」という思いを温めてきており、内部には絶滅危惧種の野生動物を描く予定でした。

新聞社不明:1994年10月27日







平成7年(1995年)
【繁栄と平和の願いを込めて仏画を制作。故郷余市のお寺へ寄贈】


 平成7年(1995年)に、故郷余市の大乗寺へ余市や祖国の繁栄と平和を願う油絵(各2m四方)3点を寄贈しました。この油絵は、幼なじみの住職から「11月に完成する葬祭場の祭壇に飾る仏画を描いてほしい」と頼まれ、自宅アトリエで8ヶ月をかけて描いたものです。

 本間は当時、「体力的に疲れたが寺を訪れる人たちに喜んでもらえることを思えば辛くはなかった」と語り、住職も「信徒一同、喜んでくれるでしょう。寺の宝物として大切に保存します」と話していました。絵は、渦を巻く昇り龍を背景に優美な表情を浮かべる瑞竜観音(右)、右手に剣、左手に鈴付きの縄を持ち、荒波の上に立つ「波切不動」(左)、夜明けにハスの花を持ちながら座禅を組む「明星観音」(中央)の3点で、それぞれ日本や余市の繁栄、漁業の安全と魚介類保護、農業の発展への願いが込められています。







平成8年(1996年)
【苫小牧市で海に挑んだ人類の歴史を辿る帆船づくり】


 この年、第二の故郷である港町・苫小牧市で「人類と海の歩みを紹介したい。」と思い立ち、歴史的な帆船のミニチュア作りに挑戦しました。

 この取り組みは、世界各地で建造・利用された船46隻を1/75サイズで復元するもので、6,000年以上も前から海上交通手段として人類に繁栄をもたらした帆船の歴史をたどり、「先人達の夢とロマンを身近に感じてもらえれば。」と構想したものです。

 また、この構想に際して俳優の森繁久弥さんから「海どのと船君」と題された激励の詩も届いており、完成した帆船と一緒に紹介されました。本間は製作した帆船のその後について、「海の町(苫小牧)の名物として、行政などが街づくりの一環で活用してくれれば」と話しており、恵庭市の本間コレクションでも展示公開されました。
なお、恵庭市の本間コレクションにも別棟を作り原型となったミニチュアを展示しています。


新聞社名不明:1996年2月15日

 





平成8年(1996年)
【東郷青児氏の壁画修復へ】

 この年、日本を代表する洋画家東郷青児が東京都内のピアノ販売会社の壁に描いた壁画をスタッフ二人と修復することになり、「完成後にはどこか公の場所に飾ることができれば。」と意欲を見せていました。

 この作品には当初タイトルがありませんでしたが、雲と五人の女性が描かれた甘美な画風で東郷青児の代表作「天使の休日」によく似た作品でした。この3、3m×7、3mもの巨大な壁画は東京に住む持ち主の倉庫に20年以上も眠ったままで、絵具が剥がれていたり空気が入って歪んでいたりと痛みが大変激しく、修復作業はおよそ10ヶ月ほどかかりました。

 なお、修復した壁画は翌年に苫小牧市博物館と恵庭市の本間コレクションにて公開され、修復を手伝った前社長の話によると東郷青児の親族から証明書も頂いて持ち主の元へ返却されたそうです。

北海道新聞:1996年5月19日







 平成9年(1997年)
【高さ2m、長さ140mの油絵「北海道の四季」の製作に着手】

 この年、画家生活50周年を記念して、大壁画「北海道の四季」の製作を始めました。「北海道の四季」は2年にわたり描き続ける予定だった壁画で、完成後の大きさは高さ2m・長さ140mにもなる見込みでした。

 本間は、市民や企業、宝塚歌劇団をはじめとする皆様より絵の具代・キャンパス代の支援を頂いた代わりに、冬には冬の風景を、春には春の風景を描きながら、道内各地の風景を左から右へ連続的に変化させ描いていく様子を公開するなどしていました。しかし翌年に脳梗塞で倒れ、画家としての生命が絶たれてしまい、「北海道の四季」は日の目を見ることなく終わっています。

 「北海道の四季」は北海道の開拓史になぞらえ、厳しい冬から描き始め、実りの秋で完成するよう構想していました。こうして、言葉ではなく絵(創作物)にメッセージを託し、見る人の感性に委ねる活動は、作家としての表現方法の一つであり、本間の人生そのものだったのではないか?と思います。







平成10年(1998年)
【郵政省80円切手「シバザクラ」「ナナカマド」原画制作】









平成11年(1999年)

本間が脳梗塞で引退したため株式会社本間武男の社長に次男本間誠が就任。本間コレクションの整理のため会社を苫小牧市から恵庭市島松に移転





平成12年(2000年)
【仏像や彫刻品が展示品の中心だった本間コレクションを美術館へ衣替え】


脳梗塞による創業者の引退に伴い、8,000点以上もの展示品の大半を整理し、本間武男の作品を中心とする美術館へと衣替えしました。







平成15年(2003年)
【本間コレクション完全閉館】


平成17年(2005年)
【建物を恵庭市に寄付】


 創業者の引退や来客数の伸び悩み、恵庭市による周辺開発の中止等が重なったため、本間コレクションは単独で維持することができなくなり2003年秋に完全閉館しました。
 なお、市有地にあった本間コレクションは更地にして返却することが難しく、ジョン・レノン記念碑以外を恵庭市へ寄付した形になっております。(ジョン・レノン氏の胸像は2009年にオノ・ヨーコさん側へお返しし、本間コレクションにあった展示物や涅槃像は債務整理のためそれ以前に第三者へ譲渡しました)


千歳民放:2005年1月26日





(2008年撮影。この後建物は取り壊され土地は民間に売却されました)





平成18年(2006年) 本間武男永眠





令和2年(2020年)
 次男本間誠の辞任に伴い、妻いずみが新しい社長に就任。社名を「株式会社本間武男」から「ウェルフェアコミュニティーデザイン株式会社」へ変更し現在に至る





 -現在弊社に残っている文化財-
 ジョン・レノン平和記念碑のイマジンのメッセージの部分です。

 

以前は倉庫にしまってあったのですが現在は室内に飾っています。



<追記>
2017年にイマジンの共同作者としてオノ・ヨーコさんのお名前も追加されました。おめでとうございます♡



(編集:本間いずみ)





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